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藤の屋文具店

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一緒に暮らしたクルマたち 14~21




        【一緒に暮らしたクルマたち】

          シトロエンID19

              その1


 僕がうんと若い頃、ボーイズライフという雑誌があった。たぶん
高校生くらいを対象にしていたと思うが、今にして思えばとても素
晴らしい雑誌であったと思う。ホバークラフトやジャイロコプター、
レーシングカートにサンドバギー、キャンプやテニス、相対性理論
に原子力潜水艦に宇宙ロケットなど、僕たちはいろいろな事をこの
雑誌から吸収した。編集者のかた、読んでいらしたら礼をいいます。
 その「ボーイズライフ」の付録に、世界の自動車を記録した小冊
子がついたことがあった。ランボルギーニ・ミウラやマセラティ・
ギブリ、イソ・リボルタ、なんかが載っていた時代である。その小
冊子にあった「シトロエンDS」こそが、「マグマ大使」に登場し
た、宇宙人の乗った奇妙なクルマなのだと、その時はじめて知った。

 鮫を思わせる流線型の大柄なボディのそのクルマは、サスペンシ
ョンからギアシフト、クラッチ、ブレーキ、ステアリングに至るま
で、すべて油圧によって動かされていて、そのデビューが今から4
0年前であることを考えれば、これは尋常な事ではないように思え
た。バックミラーにワイパーつけて世界初だというのとは、次元が
ちがうわけだ。
 この「シトロエンDS」から、油圧式のギアシフトとクラッチシ
ステムとパワーステアリングを省略したのが、IDシリーズである。
コストのためというより、メンテナンスのできぬ後進国への輸出に
対する対策であったらしい。

 中古車専門の雑誌の広告で、横浜の業者がID19を80万で出
していた。これなら手が届くと気にかけているうちに、翌月には価
格応談になり、次の月には50万になった。
 一般に、中古外車を買おうとするのは、貧しい人たちである。例
えばBMW、新しいクルマが旧型より劣っているところは何もない。
新型は常に、全ての店で改良がなされているので、中古車を買う人
の並べる理屈の多くは、予算不足に対するエクスキューズにすぎな
い。したがって、整備にかかる金が大きいクルマは、そういう顧客
にはとても受け入れてもらえない。ジャガーやシトロエンの中古車
価格が安いのは、このためである。整備に毎年100万近くかけら
れる人は、中古車で我慢する必要がないからだ。性能低下に目をつ
ぶれば20万で車検がとれる中古BMWとでは、勝負にならないの
である。
 ところが、シトロエンの中でもDSと2CVだけは、年式にかか
わりなく非常に高価である。それは、価格のために旧型を選ぶ人で
はなく、その理想主義的な設計に価値を認める人が、しつこく買お
うと狙っているからである。大量生産の4ドアセダンでこのような
ファンを持つのは、ジャガーマーク2とシトロエンDSくらいのも
のだ。
 
 したがって、50万のIDの意味するものは、それがもはや「自
動車」としてぎりぎりのレベルにあることを意味したのだが、ホン
ダSで貴重な体験をした僕は、悩んだ末に買うことにした。予想通
り、キャリアカーで運ばれてきたIDは、仲介した駆け出しブロー
カーが卒倒しそうになったほどひどく、ナンバーこそまだ残ってい
るものの、解体屋のストックが新古車に思えるほどの「お化け屋敷」
であった。その、土に還ろうとしていたIDを、僕は喜々として工
場に持ち込んだのである。
 機械部分は、予想に反してとても快調だったが、鉄骨プレハブの
ようなボディ構造の鉄骨の部分は、かなり腐敗していた。板金屋に
頼んで厚い鉄板で徹底的に補強を施し、リベットでつぎを当てられ
ていたフロアも新調した。ボディをパテで整形、深い緑色に塗装す
る。内張りは自分で作ってみた。
 これらの作業のために車検更新が遅れ、名義変更に必要な前の持
ち主の印鑑証明が、期限切れとなってしまった。やむをえず手紙を
書いた。すぐに、新しい印鑑証明とともに返事がきた。同封された
便せんには、このIDはイギリス大使によって日本に持ち込まれた
事、自分が二人目のオーナーであること、自分が高齢になって運転
をやめたため、しかたなく手放した事、家族はみな別れを惜しんで
いたが、補修しながら乗り続けるには限界になっていた事などが、
読んでいて胸が熱くなるような文章で認められていた。

 ハイドロニューマティックシステムのオイルは鉱物性のLHMに
変更になり、初代フェアレディZを思わせるシングルのヘッドライ
トを持つ旧タイプのボディは、このIDが1966年型であること
を示していた。イギリス仕様の右ハンドルは、アウディのようにマ
スターシリンダーの配管によるブレーキの性能低下もなく、前後で
20センチも違うトレッドと高性能な等速ジョイントのおかげで、
信じられぬほど小回りもきき、巨体に似合わず運転は楽だった。
 このID19によって知り合った多くの人々は、僕のその後の人
生に大きな影響を与えることになる。それまで出会ったクルマ趣味
の人たちとは、単にクルマだけの付き合いであったのだが、DSを
愛する人たちの人生観は、僕に、自分の心を縛っていた鎖の外しか
たを教えてくれたのである。

 そして、四日市でのDSオーナーミーティングで仕入れた情報に
よって、僕は1台のDS20のスクラップを手に入れ、いよいよフ
ランス車趣味へとのめり込み始めたのであった。


        【一緒に暮らしたクルマたち】

          シトロエンID19

              その2


 日本では、外国車のパーツは異常に高い。大量に走っている車種
はまだしも、台数が限られている車種では、本国の20倍程の価格
のつけられているパーツすらある。理由はいろいろあるが、日本に
おける外車オーナーのおおらかさも、大きな一因だろう。高い維持
費を自慢するようなオーナーでさえ、地方都市においてはたまに見
られるくらいなのである。
 シトロエンの部品についても、消耗品はまだしも安いのだが、通
常なら交換することのないような部品は、やはり「外車価格」がつ
けられている。実働台数からすれば、いたしかたのないことではあ
るが、しみったれの多いフランス車オーナーは、なんとかしようと
知恵をめぐらしているのである。

 ふつうの自動車マニアにシトロエンの話をすると、たいていは「
メンテナンスがねー・・・」という反応を示す。ましてやDSの事
になれば、「一年の半分は工場入りだよ」くらいのことは言うかも
しれない。オイルの圧力でスプリングからブレーキからハンドルか
らクラッチからギアシフトから、何から何まで動かしているから、
どこかがぷっちんしたらたちどころにお手上げだと言うのである。
 そして、その指摘は、あながち誇張ではない。僕も一度、ファン
ベルトが切れてキャリアカーを待つはめになった事もある。しかし、
この12年間で動けなくなったのは、それ一回きりにすぎない。考
えてみれば、累計で200万台を超える実用車が、そんなに故障す
るわけはない。原因を放置したまま末端の部品だけを交換するよう
なメンテナンスが、悪いのである。
 とはいえ、機械であるから消耗もすれば、予想しなかった部品が
破損することもある。そういう時に迅速に修理する一番良い方法は、
部品のストックを一台分用意しておく事である。いわゆる「部品取
り」のクルマをガレージに確保しておけば、古いクルマを安心して
使う事ができるわけだ。

 DSオーナーの情報をもとに、僕は部品取り用のDS20を一台
手に入れた。車両代10万と運送費5万である。ウィンドシールド
一枚注文したって、この値段では手に入らない事を考えれば、安い
と言えば安い価格である。もっとも、大都市に住むユーザーはこう
はいかない。ガレージの賃料が毎年何十万もかかるからである。
 ちょうどそのころ、僕は郊外に家を手にいれた。600坪の敷地
には、家の他に84坪の織物工場がついていて、合掌造りによる柱
のないひろびろとした工場は、DSをひとりでいじくりまわすには
最高の環境であった。

 DSの構造は、発表された当時建築家の注目をも集めたように、
いわゆる鉄骨プレハブ構造である。頑丈な骨組みにぺなぺなのパネ
ルがネジでぶら下がっている、そんな造りである。金庫のようなボ
ルボとは違って、大事故のさいには、そこいらじゅうに表皮をまき
散らしながら滑走し、乗員だけは頑丈なカゴの中にとどめておく、
そんな設計思想である。フロントウィンドゥは、頭が当たるとすっ
飛んで行く。特徴的な一本スポークのステアリングは、胸にシャフ
トが刺さるのを防ぐばかりか、しなって乗員の運動エネルギーを受
けとめる効果も持つ。窓の小さな深いボディは、車外への飛び出し
を防ぐデザインだ。ようするに、設計当時の技術でできる限りの工
夫を盛り込んだ、そういう設計なのである。

 この構造が幸いして、僕はDSを自分の手でいじりまわすことが
出来た。そう、2台のDSを混ぜ合わせて一台に仕上げたのである。
 ドイツやイギリスのクルマだと、それらは熟練したプロフェッシ
ョナルによって組み立てられるので、パネルやドアの交換を素人が
行う事は無理があるのだが、外国からの季節労働者を前提に設計さ
れた、当時のシトロエンは違う。多少ずれても大丈夫なように遊び
を大きくとって、すべての外装パネルは大ざっぱに取り付けられ、
その隙間をたっぷりとしたラバーが埋めるのである。 
 しかもその取り付けは、ドアはボルト1本、トランクとボンネッ
トは4本、リアフェンダーは1本、屋根は16本、フロントフェン
ダーは3本といった具合に、まさに必要最小限といった簡単さであ
る。汗さえ出せば、田舎の文具屋のおやじにだってできるようにな
っていた。

 そして、仕事が終わった後、ハイエースで毎晩のようにガレージ
に通い、何が楽しくてついてくるのか知らんが、当時4才だった長
男の明がうろうろする横で、僕のIDはDSと混ぜ合わされて、ど
んどんきれいになっていったのであった。


        【一緒に暮らしたクルマたち】

          シトロエンID19

              その3


 部品取り用のDSから大量のパーツを移植された僕のID19は、
事実上DSになってしまった。FF車の利点は、ユニットごとごっ
そりと駆動部分を交換できることにある。造る立場になれば、こん
なに効率の良い構造はあるまい。世界中の大量生産メーカーがFF
へとシフトしていった理由が、とてもよくわかる。タイヤやジョイ
ントの性能とコストが向上した現在なら、前輪駆動車の生産は、と
ても簡単にたくさんの車種を展開できる便利なシステムだろう。

 浜名湖や箱根へと、家族をつれてあそびにいくうち、「フレンチ
ブルー・ミーティング」の案内がきた。車山高原のスキー場で、フ
ランス車のオーナーが集まってわいわいさわぐというイベントであ
る。ドイツ車だと性能自慢、フェラーリやランボだと骨董品自慢に
なりがちな「ミーティング」なのだが、理屈こきの偏屈屋が多いフ
ランス車オーナーには、のーがきをたれる程度のマニアはいないだ
ろうということで、参加してみることにした。
 当時、ユーノスがシトロエンを販売し始めるところだったので、
ユーノスからも何人か挨拶にきていた。雑誌社のひとたちも、何人
か来ていた。福井でブローカーをしていた知人のところで出会った、
フリーのライターが来ていたので、その後の近況を話す。
 僕の生活に興味を持った彼は、後日福井まで取材に来て、内藤家
のバチアタリなガレージがル・ボランという雑誌の紙面を飾ること
になったりした。この本は、昔好きだった(もちろん今もそうだが)
女性に近況を伝えるのに利用させてもらったりもした。

 DSの室内は広い。3.1メートルを超えるホイルベースと、ペ
リメーターフレームに近い構造による低い床、1.8メートルもあ
る車幅、高いルーフ。そんな根本的なところからしっかりと考えら
れた居住性を持つ異形のボディは、ハイドロニューマティックとい
う革命的なサスペンションの油の海に浮かび、まるで豪華客船のよ
うなゆったりとした揺れで乗員を包む。駆け出しの評論家の誉める
堅いイスとはかけはなれたふかふかのソファは、1200キロのツ
ーリングのあとにも疲労を残さず、パセンジャーを熟睡させてしま
うのである。
 そんなDSにも欠点はある。オーバーヒートである。空気抵抗軽
減のためにボディ前端の下側から空気を取り入れるDSは、真夏の
渋滞路ではアスファルトの熱気を吸ってしまうのだ。対策のために
電動ファンを取り付けたら、エアコンオンで電気が過剰消費になっ
てしまった。へたに大きな発電器をつけると配線がやばいので、結
局、クーラーをはずす事にした。
 40年も前の設計のクルマを現代の路上で使うと、加速はともか
くブレーキの弱さにひやりとするものだが、こと大型シトロエンに
ついてはそれは当てはまらない。車重の6割を受け持つ前輪の巨大
なインボードディスクは、高圧のオイルがぐいぐい締め付け、荷重
の変動の激しいリヤは、サスペンションの受ける荷重に応じて効き
を調節する仕組みになっている。これらはみな、画期的なハイドロ
ニューマチックシステムの恩恵をうけているわけだ。
 また、DSのミッションは油圧シリンダーによる遠隔操作で、ク
ラッチもまた、油圧によってメカニカルにコントロールされる。こ
のシステムは後年、イスズによって電子制御をとりいれた「NAV
I5」というシステムが登場するまでは、他社の追随を許さぬ画期
的なものであった。

 僕は、フランスはあまり好きではなかったのだが、こういう、な
りふり構わずに理想を追求する姿勢を見てからは、あれほど好きだ
ったドイツが見劣りしてしまうように感じられてしょうがない。事
実、ドイツのクルマの設計の中には、その圧倒的な高品質と組立精
度を除けば、見るべきものは何もない。たゆまぬ努力と勤勉な研究
さえ怠らなければ、誰もがたどり着く事のできる頂点である。この
日本で、ドイツのクルマが高い人気を得ている理由は、おそらく、
こういうわかりやすさにあるのだろう。
 いっぽう、フランス文化の香りを強く残すDSは、自分の中に独
自の評価基準を持たない人の多い日本では、その価値を認めてもら
えにくいのかも知れない。絵描きや彫刻家、デザイナーや建築家に
DSオーナーが多いのは、考えてみれば当然かもしれない。他人と
同じ事を暗黙のうちに強要されがちな一般の会社員には、まだしも
BMWやベンツのほうが、気楽に車庫に入れておけるからである。

 DSを通じて知り合った友人は、必ずしも「良い人」ばかりでは
ないけれども、少なくとも、悪人ではないというだけの退屈な人た
ちよりは、とても魅力的である。そこには、持っているものを離れ
れば何も残らないような、そんな寂しいひとたちはいなかった。日
本では、金さえだせばどんな人でも好きなクルマに乗れるのだが、
DSは、クルマがオーナーを選ぶ数少ない例のうちのひとつなのか
も知れない。

 このDS(ID)には、もう13年以上も乗り続けている。僕は、
クルマでも友人でも、魅力さえあれば欠点は我慢する性格であるら
しい。


        【一緒に暮らしたクルマたち】

          ホンダステップバン


 まだ排気量が360ccだった時代,軽自動車は我慢グルマのイ
メージが強かった。出来る事なら、パブリカでもチェリーでもいい
から普通車に乗りたい、そういう人たちが、車検や車庫証明や格安
の税金のために、ある程度何かを犠牲にして選ぶ、そんな雰囲気が
当時の軽にはあった。事実、制限された寸法と小さな排気量のため
に、当時の軽は,積極的な理由を持って選択されにくい、そんなク
ルマであった。未熟なマーケットでは、ユーザーは背伸びをしたが
るものなのである。

 そういう時代に、ホンダから変わった商用車が登場した。空冷エ
ンジンではアメリカのマスキー法(排気ガスの取締法)と騒音規制
への対応が困難だと判断したホンダは、大ヒットしたN360を水
冷エンジンのライフへとモデルチェンジし、その動力機構を利用し
て、前輪駆動のバンを作り上げたのである。
 当時の商用車は、ジョイントや駆動軸荷重の問題もあって、後輪
駆動が一般的だった。しかも、いわゆるワンボックスタイプのバン
においては、エンジンの上に運転席を載せた、キャブオーバーバン
が日本のスタンダードだった。たかがトラックの運転手の安全や快
適性など、自動車メーカーにとっても会社の購入係にとっても、あ
まり重要ではなかったというわけである。
 そんな時代に、貨物室のサイズと引き換えにドライバーの安全性
を求めた設計のクルマが売れるはずもなく、一部のあたらしもの好
きなユーザーの支持を受けただけで、ひっそりと歴史の中に消えて
いき、現在に至るまでホンダは、キャブオーバーのアクティだけを
供給している。

 同じ程度のむかし、ATCという三輪の乗り物があった。アメリ
カでの裁判に嫌気がさして、全メーカーとも生産を中止してしまっ
たが、まともなオツムを持ったひとなら、安全に遊ぶことができる
おもちゃである。映画でボンドおじさんが乗り回しているのを見て
欲しくなり、月々一万三千円の月賦で、僕は買った。
 そのATC70というおもちゃを運ぶためのクルマが必要となり、
あちこち見て回った挙げ句、HISCOというチェーン店で、僕は
ステップバンの古いやつを手にいれた。リアシートをたたむと、僕
のATCはぴたりと納まった。結婚直後のことで、僕がどんな人間
か知るよしもなかった哀れな22才の奥さんは、日曜のたびに赤い
三輪車を積んだ白いへんなポンコツの助手席に押し込まれて、三里
浜や三国や千里浜へと連れていかれ、喜々として浜辺を走り回る旦
那を見ているはめになったのである。

 ステップバンは、最近大ヒットしているワゴンRとよく似たスタ
イルである。こんなおもしろそうなボディを僕がおとなしく見てい
るはずもなく、いろいろと手を加えだした。まず、最初のドレスア
ップは、百一匹ワンちゃんのポインター柄のイメージであった。黒
いカッティングシートの裏に楕円定規を当て、店番をしながらハサ
ミでせっせと切り抜いたのである。天気の良い日曜日、僕はシール
を積み込んだステップバンで一人出かけ、変身して帰ってきた。
 このデザインは、めだつなどというなまやさしいものではなかっ
た。ポインターのイメージばかりではなく、「アブナイ病気」だの
「地面から這い上がってくる無数の虫」だのという感想を道行く人
たちにまき散らし、そんなことでびくともするはずない僕の運転に
よって、多くの人を笑いとぞびぞびの渦に巻き込んでいった。

 次なるデザインはスコッチのカラーストライプテープによる、虹
のようなグラデーションであった。これはなかなか綺麗で、そして
つまらなかったので、すぐに飽きた。
 どうせ綺麗にするなら、うんとシックにしてやろうという事にな
り、なすびのような深い紺色に全塗装をしてみた。しかし、板金を
繰り返してきた古いボディはよれよれと波打ち、ごまかしのきかぬ
濃い色のせいでポンコツぶりが際だってしまったのである。トウの
たったおばさんにセーラー服を着せてしまったわけだ。
 こういう場合のフォローは慣れているので、ピンストライプでお
化粧することにした。ずんどうのクルマをシャープに見せたり、チ
リの合わないボディをすっきり見せるには、これが一番簡単で安い
のである。ドライブショップマッハで白い2ミリのストライプを買
ってきて、パネルごとに縁取りのラインを入れた。おぉぉ、かっこ
良くなった。お仏壇だという声もすこし聞かれたが・・・。

 前の持ち主によって手が入れられていたのだろう。僕のステップ
バンは、高速道路でもバンバンと走った。子供が生まれてからは使
う事がなくなり、S600のアルミホィールと引き換えに貰われて
いったが、今、ステップワゴンで毎日走り回っていると、時々ステ
ップバンのことを思い出す。もう、廃車になっちゃっただろうなぁ。

 たのしかったよ。


        【一緒に暮らしたクルマたち】

           シトロエン2CV


 マイカー元年と言われたころ、カローラのTVCMで印象に残っ
ているのがあった。川崎敬三だったかな、さえない青年サラリーマ
ンが、カローラを購入すると同時にいきいきと変身し、会社でも女
の子にもてもてになってしまう・・・という、脳天気なやつである。
キャッチコピーは、「カローラはあなたを変えます」。
 このCMがユニークだったのは、クルマそのものの機能ではなく
て「クルマのある生活」を、いわばソフトウェア商品として売り込
もうとする、そのコンセプトであった。カローラではなかったが、
僕は、生まれてはじめて自分のクルマを手にしたときの感激を、今
も忘れてはいない。クルマには、確かに世界観を変えるほどのちか
らがあるのだと、僕は思う。

 フランスの農民のために造られた大衆車。イワシの缶詰、鳥かご、
ブリキ小屋等のニックネームで有名なこのクルマと暮らし始めたと
き、僕の世界観はふたたび変わった。それまでクルマに対して持っ
ていたこだわりのようなものが、どこかに消えてしまったのである。
 V型12気筒だの、ジェンセンのスーパーチャーヂャーだの、ト
ルクスプリットタイプの4WD、ゲトラグのミッション、そんなマ
ニアックなパーツや流麗なボディのスーパーカー、レースで有名な
ブランドといったもろもろのものが、僕にとってはどうでもいいよ
うになってしまったのだ。
 このクルマ以降の僕のクルマ撰びは、乗って楽しいか使って便利
かの、どちらかになってしまった。メカニズムに対する興味や知識
は、もちろん無くしてはいないのだが、僕にとってのそれらは、ク
ルマの魅力とは別のものになってしまったのである。

 クルマ趣味が高じて郊外に買った家から通うため、通勤に2台の
クルマが必要になってしまったため、僕たちは手ごろなクルマを物
色していた。雪道に強くガソリンをあまり喰わず、整備に金がかか
らずガキにからまれず、近所のおっさんに妬まれないクルマを、で
ある。130万前後でもっとも魅力的だったのが、イギリスのミニ
とフランスの2CVだった。けっこう迷ったが、DSが意外に故障
しないことと、雪道の走破性を考慮して、2CVに決定した。
 2CVは、たいへん質素な構造をしていた。ゴーカートの上に鳥
かごを乗せて、雨が入らないようにブリキ板をネジで止めたような、
そういう構造である。イスなんか、パイプを曲げて布を張ってある
だけだ。屋根に至っては、「サンルーフが装備されている」のでは
なくって「鉄板が張ってなくてビニールで蓋をしてある」という表
現のほうが適切だった。

 600ccで28馬力、車重は580キロのこのクルマは、床で
はなくて前方から生えているシフトレバーを駆使して、ギャンギャ
ン回して走らせてやれば、乗ったことのないカーマニアが言うほど
遅くはなかった。125ー15というバイクのようなタイヤは、ど
んなでこぼこがあっても地面を離さず、重心の低いフラットツイン
はタフに仕事をこなした。もちろん、ATのベンツやクラウンみた
いに、チンパンジーが乗っても速く走れるような許容性はなかった
けれど、アタマさえ上手に使ってやれば速く走れたのである。
 天気の良い日の配達では、屋根を開いて事務机とイスを4本づつ
運んだこともある。鉢にうわった苗木も運んだ。イヌだって保健所
まで注射に連れていった。セメントだのブロックだのを積んで、へ
たりこんだ犬のように身重になっても、室内から調整できるヘッド
ライトはきちんと路面を照らした。20センチの新雪の上を、ネコ
のようにひたひたと走り回った。形だけ似せたどこぞのクルマと違
って、2CVは、道具としてクルマを使う人のことを真剣に考えて
設計された、ほんまもんの「実用車」だったのである。
 そして、その実用性のゆえに、諸般の事情からふたたび都心のビ
ルに本拠を移すことになったとき、部品取りのためのもう一台まで
手にいれていたにもかかわらず、僕はこのクルマを友人に譲ること
になってしまった。このクルマでクルマのある生活を知り、やがて
他の「文明的な」クルマへ乗り換えていったフランスの農民たちの
ように、で、ある。

 このクルマと生活を始めてから、僕は、忘れかけていた「自由」
という言葉の本当の意味を、思いだしたような気がする。


        【一緒に暮らしたクルマたち】

            マイガレージ


 クルマの名前ではない。英語でいうところのモーターデン、クル
マのための建物である。
 産業界と金融業界、そして為政者たちの利害が一致し、常識はず
れの価格で土地が売買されるに至った現代の日本では、1500万
の高価なクルマが買えるようなリッチな人でも、ガレージどころか
自分の家さえ持てない事があたりまえである。僕もその例に漏れず、
駅前の店舗兼住宅から近いところに、青空駐車場を借りていた。

 S600というポンコツのオープンカーを買ったとき、いろいろ
と修理や整備をするためのガレージが欲しくなった。当時仲の良か
った少し年上の友人が、「共同でガレージを借りよう」と言い出し
たとき、僕は渡りに舟とばかりにその話に乗り、詰めれば6台入れ
られそうな建物を、長い期間借りる事を条件としてガレージに改装
してもらって、3万5千円の家賃で契約したのである。
 ところが、スタートしてすぐに、この友人はやめると言い出した。
契約は僕の名前でしたので、やむを得ずに僕はひとりで家賃を払い
続ける事にした。すでに床やシャッターの工事をしてもらっていた
ので、キャンセルなどできるわけがない。40を過ぎた社会人なら
常識でわかることである。ところが、この友人は、さらに、自分の
出した敷金を返してくれとまで僕に言った。黙って言うとおりにし
てやったあと、僕は、友人である事を静かにやめた。
 後日わかったことだが、彼は大きな工場を一人で契約して借り、
所属していた自動車クラブの会員から、会費をとってクルマを預か
る商売を始めようとしたのである。
 この事件以来、僕はこの友人を信用する事をやめた。約束を守れ
ぬ人間に、僕の友人であり続ける資格はない。悪い人間ではなかっ
たが、信頼できぬ人間と付き合っていると、僕を信頼してくれるま
ともな友人に迷惑がかかる。
 おかげで、ずっと後になって、この男が、古いクルマで投機をし
ましょうといって知人からお金を預かり、何億円もの負債を抱えて
倒産する事件を起こしたとき、一人をのぞいて、僕の友人たちは無
関係でいられたわけだが、情けない男も世間にはいるものである。
40を過ぎても自分の利益しか考えぬ男は、二流である。

 そんなわけで、しばらくは一人でこのガレージを使っていたもの
の、毎月なんやかやで4万も払い続け、そのうち値上げするに違い
ない借り物より、いっそ遠くても良いから自分のガレージを手にい
れようと考えるようになった。僕は、考えるだけで何もせず、ぼー
っと死んでいくような人間ではないので、やがて実行に移した。
 賃貸契約が切れる頃、あちこちの格安物件を物色するうちに、裁
判所の競売物件に目をつけ、何度か執行官室や信用金庫の融資課ま
で相談にいき、綿密な計算のもとに入札価格を決定して運良く落札
し、格安の物件を月賦で購入したのである。
 JR福井駅からクルマで15分の山里の部落で、600坪の敷地
に大きな家とともについてきた84坪の織物工場は、合掌造りのた
めに内部に柱が一本もなく、その気になれば20台くらいは楽に詰
め込まれるような、巨大なガレージとして使う事ができた。

 なにぶん金がないので、安く買ってきた60トンの山土を一輪車
でひとりでならし、建材屋まで買いにいったレンガやブロックやセ
メントで、一人でテラスやプールを造り、芝生を植え、藤棚を作っ
た。町内の材木屋は、何につかうんじゃいといぶかりながらも、大
量の材木を運んでくれた。美大の時に勝手に習ってきた木工や金属
加工、建築に関するわずかな知識を総動員し、ノウハウはやりなが
ら身につけた。ものをつくる事は、僕のもっとも古い趣味である。
 ある程度敷地内がきれいになったころ、1/24のレーシングカ
ーのコースを買ってきた。営業用の、一度に4台走れる20メート
ルのコースである。畑の中には、幅80センチのポケットバイクの
コースも作った。バーベキューの炉も作った。ガレージの中には、
FRP用の樹脂やグラスマット、造形用の粘土、型取り用の樹脂、
部品取りのためのクルマ、古いバイク、ゴルフカート、バギーなん
かが、ぞくぞくと集まってきた。ほとんど、友人たちがごみ捨て場
から運んできてくれたのである。

 このガレージを手にいれてから、僕のクルマ道楽は、さらにパワ
ーアップしていったのであった。

        【一緒に暮らしたクルマたち】

        アルト・ウォークスルーバン


 僕は、いわゆる「トラッド」というものが嫌いである。興味がな
いというのではなく、積極的に嫌いである。いいこいいこで高校生
になって、エロ本やエロ映画やタバコをこそっと楽しみ、同級生と
万引き程度の悪い事をたしなみ、大学に入ってからはアイビーの真
似した服を買い、卒業したらネクタイ締める仕事につき、セルシオ
やベンツやベンベに憧れるような生き方、が、大嫌いである。右見
て左見ておててつないで、時には赤信号を渡りながら、ちーちーぱ
っぱと生きていく人生が、とても嫌いなのである。
 僕がこういう志向を持つのは、僕の受けた教育のせいである。そ
う、僕は、戦後民主主義の教育をストレートに受けとめ、そのまま
実践して育ってきたのである。とても真面目な十万馬力が素直に理
想論を吸収すれば、こんな国民が出現するのは当然なのである。駅
弁大学でたららんと過ごしたデモシカ教師の処世術なんぞ、フルパ
ワーの正論の前には無力だったのである。

 地方の零細企業にとって、従業員の問題は深刻である。都会の大
企業とは比較にならぬ安い給料と、はったりの効かぬ会社名、出世
なぞできるはずのない個人商店、そういう待遇を反映してか、やる
気もなく責任感も薄いものが続き、わき見運転で追突しては罰金も
払って欲しいと甘えるやつまでいた。一年も働かぬうちに事故を起
こしてさっさとやめるのが二人続いたので、しかたなく自分で配達
をすることにした。

 通常、ざいごのあととりのボンが配達なんぞをすると、ベンツの
ワゴンとかパジェロのぎんぎんのやつなんかを使いたがるものなの
だが、もっと頑丈なクルマにせいという母親の懇願を無視して僕が
選んだのは、アルトのウォークスルーバンであった。
 「アルト47万円」で、軽自動車本来のマーケットを開拓したス
ズキが、ダイハツの「ミラ・ウォークスルーバン」のコンセプトを
ちょんぼして売り出した「アルト・ウォークスルーバン」は、太っ
た電話ボックスにアルトのボンネットを糊でつけたような、とんで
もないカタチをしていた。このクルマを深見町のガレージに納車し
てもらった時に、近所の人は

「これ、あんたがつくったんけぇー?」

 と僕に聞いたくらいである。この手法は、その後ミツビシが洗練
して「ミニカ・トッポ」を開発し、ふたたびそれをスズキがちょん
ぼして、「アルト・ハッスル」にまで発展した。もっとも、ダイハ
ツのデザイナーのアタマの中にだって、フランスの「フルゴネット」
タイプの商用車があったわけではある。
 デザインの盗用問題については、いちゃもんで飯を喰ってる評論
家に任せることにして、お得意さんのスズキが売ってる「アルト・
ウォークスルーバン」のほうを、僕は買うことにしたのである。

 さてこのクルマ、右側にはドアがない。もちろん、右ハンドルで
ある。どこから乗り降りするのかというと、左側のスライドドアか
らである。当然助手席が邪魔になる、で、助手席はない。左の後ろ
に、折り畳み式の補助イスがついているだけである。
 配達先の店頭にクルマをとめ、スライドドアをがばっと開け、ほ
とんど立ったままで動ける室内の後ろから商品を取り出し、そのま
ま歩道にダッシュ、受領書を受け取ったらクルマに飛び乗り、後ろ
手にドアを閉めて発進。このクルマだと、どんな土砂降りでも、あ
まり濡れずにすむ。
 ジャンパーを着た人たちは、なるほどなぁと感心していたが、ネ
クタイを締めた人のほとんどは、変わったカタチだから宣伝になる
んだろうと決めつけ、乗ってて恥ずかしくないのかと同情してくだ
すった。彼らの目には、単に奇をてらっただけの、みっともないク
ルマに感じられたのだろう。

 でも、社名の入った、ラジオしかついてないマーチより、僕には
ずっとかっこよく思えていたよ。


        【一緒に暮らしたクルマたち】

タウンエースワゴン4WD


 今はまた福井駅前のビルで暮らしているが、7年ほどの間、僕た
ちは深見町から駅前に通っていた。長男は小学生だったため、不在
者家庭とやらの申請をして、駅前の地区の小学校へ通わせていた。
 そのため、7時ちょっとすぎに僕が長男をつれて駅前の店へ出発
し、奥さんは子供ふたりを積んで8時半ころに出社、帰りは、5時
頃に奥さんが子供を全部つれて帰宅、僕は7時半に店を閉めてから
帰宅。そんな生活がずっと続いたのである。

 このような用途に使うには、奥さん専用車である初代シティは、
とくに帰宅のときに小さすぎて不便だった。それに、農村部のドラ
イバーは一時停止や信号無視がわりと平気で、見通しの良い交差点
なんかだと、一時停止をするのがいやなためか猛然とダッシュする
ような人たちが結構いたりして、万一のことを考えると不安が残っ
た。日本では、小さくて安いクルマの安全性は、とてもとても低い
のである。で、買い替えることにした。

 クルマを入れ換えるにあたって、条件を整理してみた。四輪駆動
でオートマ、ディーゼル、パワーステアリング、ぶつけられても深
刻な負傷を負わない程度の頑丈なボディと、7人乗ってそこそこ荷
物が積めることである。
 いろいろな、というかすべてのクルマを調べたあげく、初代パジ
ェロのロングボディと、タウンエースワゴンが残った。国産のワン
ボックスは、これ以外はアメリカの安全基準にすら合格しない程度
のものしか、当時はなかったのである。また、輸入車は、現地の価
格とかけ離れたむちゃくちゃな値段がついていて、おまけにメンテ
ナンスや部品の供給を考えると、しみったれの僕たちの我慢できる
コストではなかった。

 僕はかけひきが嫌いである。それぞれのディーラーへ行き、タウ
ンエースとパジェロのどちらかを買おうと思っていると告げ、見積
りをとった。当然パジェロのほうが価格が高いわけであるが、トー
タルではその差は莫大なものになっていた。下取りのハイエースの
価格が、40万に対して15万だったのである。値引きは両社とも
いい勝負だったのだが、査定額が根本から違うのだ。
 結局、荷室の広さと頑丈さでイーブン、雪道走行の走破力でパジ
ェロに未練を残しつつも、50万近い差額ほどの価値はないと判断
してタウンエースに決めた。後日、ミツビシから電話がかかってき
たときに、契約を済ませたことを知らせたとき、相手は絶句してい
た。値引き交渉のために競合させていただけで、本気でタウンエー
スと比べていたとは思わなかったらしい。僕たちにとっては、しょ
せんどちらも妥協の産物である。

 さてこのタウンエース、ほんとうによく使った。小さいので、奥
さんが買い物に行くのにも便利だし、シティと違って、気楽に荷物
をぽんぽん放り込めた。ターボディーゼルはそこそこの加速をして
くれたし、四輪駆動のため、何のテクニックもなしに雪道を走るこ
とが可能だった。海水浴で砂浜に乗り入れても安心、雪の駐車場で
もずぼらに発進、箱根や鈴鹿に出かけるときも、子供たちはゆった
りとくつろいだままのんびり走れた。やはり、売れているクルマに
は、それだけの理由があるのである。好みで選んでいたクルマは売
れないものが多かったが、生活の道具として必要に迫られて選んで
みて、ベストセラーの理由がよくわかった。

 現在でも、僕たちの使っていた型のタウンエースが、まだ現役で
販売されている。表面のパネルこそ違う形に変えられているものの、
中身は同じである。過大な荷重のために偏摩耗する前輪タイヤや、
短いホィールベースのためにゆさぶられるドライバーシートなど、
細かい欠点はいくつかあったものの、あのサイズと価格の制限の中
では、あれが最良の解答だったのだと、僕は思う。



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